2019年度 日本史部会発表要旨 
 

1、束帯装束の形成と展開

広島大学 米倉 広晃

束帯は前近代の日本における、実質的最上位の服制である。一般にこの束帯は、養老衣服令に規定する朝服の後身に位置づけられる。しかし先行研究では、「束帯」の語に表現される服装について、具体的に定義づけられていない。わずかに佐多芳彦氏が、束帯を「石帯をもって(最上衣上から)着ている衣服を束ねる着装法の服装」(同「『朝服』と束帯―用例からみた平安初期公家服制―」(『風俗史学』242003年、15頁)と述べられるにとどまる。

 そこで本報告では、朝服の語との関係性に注視しつつ、束帯のそれに表現される服装への定義づけを試みたい。特に先行研究でほとんどふれられない、袴(表袴と大口袴)に関する問題を中心に据え、束帯装束の形成と展開について検討を加える。というのも、この正・礼装にズボン型の「袴」を組み合わせる服装に、必ずしも中国的な礼秩序に則らない、いわば日本的服制の形成を看取できるからである。そして、服装における国風化なるものの実相も、そこから垣間見えてこよう。



 

2、大正期の実業教育制度と専門性

九州大学 小林 篤正

近代日本の教育史研究は、制度の変遷に関する精緻な分析を積み重ねるだけでなく、特に近年では、教育を政策領域の一つとして捉える観点から、教育政策の形成を担った官僚制度や、教育をめぐる専門性の問題にまで、研究が深化しつつある。

 報告者は、これまで東京高等工業学校(現東京工業大学)の出身者に着目し、主に専門性の問題を主眼として研究を行ってきた。その際重要になるのは、実業教育を通じて養成される理系知識、技術、現場知といったものは、数量化などの手段を通じた明確な把握が困難であるという、専門性の性質である。では、専門性の養成を目的とした実業教育の政策的な根拠とは、どのようにして説明されたのか、またはされ得なかったのか。

 本報告では、大正91920)年の実業学校令改正前後における、実業教育に関する議論、特に義務教育修了後、種々の実業に従事する青少年を対象とした実業補習教育をめぐる議論に着目し、上述の問いに対する解答を示してみたい。




3、戦国大名権力の国人領主支配について

―備後国衆上原氏の毛利氏離反を素材として―

毛利博物館 柴原 直樹

 16世紀後半、中国地方に大領国を形成した毛利氏は、国人領主連合の盟主が権力を集中して戦国大名化した典型とされている。またその出自ゆえ、かつて同格であった領国内の国人領主統制に苦しみ、本格的な国人統制が実現するのは、統一政権服属以降とされる。

 こうした通説は、概ね正しいと思われるが、その一方で、戦国大名段階の毛利氏が、かつて同格であった領国内部の国人領主層をどのように統制し、どのように領国支配の体制に組み込んだかについては、著しく研究が遅れているといわざるをえない。

 備後国衆上原氏は、戦国大名毛利氏の基盤となった備芸石国人領主連合の一角をなす有力国人領主(国衆)であり、天正10年(1582)の備中戦線においては、毛利勢の中核とされながらも織田方に離反した、いわゆる毛利氏が統制に苦しんだ国人領主の代表的存在である。

 本報告においては、備後国衆上原氏が離反する過程を分析することにより、戦国大名段階の毛利氏権力と国人領主との関係を明らかにしたいと考えている。



 

4、室町期守護山名氏の領国支配

広島大学 邊見  聖

山名氏は南北朝期から室町期にかけて一族で複数の守護職を保持した。その複数の国にまたがる支配を検討するうえで、2009年に川岡勉氏が指摘した「同族連合体制」は重要な視点である。しかしながら、国によって研究の蓄積度にバラつきがあるなど、研究状況は決して十分とは言えず、「同族連合体制」については検討の余地が残されていると考える。

そこで本報告では、惣領家と庶家それぞれの領国支配を考察し、相互の関係性などから「同族連合体制」について検討を加えてみたい。

 


5、中近世移行期毛利氏の兵粮政策について

広島大学 中原 寛貴

 

 兵粮は、戦争を遂行するうえで欠かすことのできない重要物資である。しかし、1980年代までは中世的軍隊=兵粮自弁といった理解が通説であり、中世史においてほとんど研究対象にならなかった。

 一方、90年代に入ると、兵粮の補給過程を個別具体的に解明することで従来の自弁説を相対化する潮流が生まれる。例えば、永原慶二氏は、秀吉の小田原攻めの際に後北条氏が兵粮を調達して支給したことを明らかにし、また、菊池浩幸氏は、毛利領国を対象に兵粮の調達や輸送、備蓄面などを検討した。さらに、近年、久保健一郎氏が、独自の「戦争経

済」論の中心に兵粮を据えて、『戦国時代戦争経済論』と『戦国大名の兵粮事情』を発表したように、中世兵粮論は深化していると言える。

 ただ、現状の到達点と思われる久保氏が素材としたのは、後北条氏・武田氏・上杉氏など近世まで残らなかった大名である。このためか、中近世の移行過程についてはあまり検討されていない印象を受ける。そこで本報告では、戦国期から近世にかけて大名として存在した毛利氏を題材に設定して、この点について掘り下げたい。


 

6、幕末・明治初期における井上馨の外交政策

長崎大学 田口 由香

 本報告は、幕末期から明治初期までを対象として、井上馨の外交政策を検討するものである。明治期の井上は初代外務大臣、内務大臣、大蔵大臣と閣僚を歴任したため、先行研究では明治以降の政治家として、特に財政政策が注目されてきた傾向がある(小幡圭祐『井上馨と明治国家建設―「大大蔵省」の成立と展開―』2018年他)。しかしながら、幕末期、井上は19世紀の西洋諸国によるアジア進出を対外的危機と捉え、イギリス密航留学などの対外活動を通して独立を保つために必要な国家体制を構想していった(拙稿「幕末・明治期における井上馨と伊藤博文の国家構想」平成30年度山口県研究支援事業)。また、明治初期には外国事務掛兼長崎裁判所参謀として、政府が外交的立場を重視した長崎のキリシタン問題に現地で対応している(安高啓明『浦上四番崩れ』2016年)。よって、本報告では、幕末期から明治期の各段階における井上馨の外交政策を検討したい。

 

7、『明治前期大審院刑事判決録』にみる明治前期の強姦事件に関する基礎的考察

―勝部眞人氏の「内済の伏流化」論に対する女性史の視座からの再検討 

韓国・嶺南大学 安  浚鉉

1990年代、韓国で元慰安婦の告発で日本軍従軍慰安婦問題が知られて以降、歴史学は主に慰安婦問題を中心に、戦時性暴力問題を、時には国家や民族の枠のなかでの「戦争」性暴力として、時には近代における女性に対する暴力の問題=戦争「性暴力」問題として捉えてきた。

 しかし、戦時という特殊状況下でなく、常時の暴力は語られない。「昭和」の「戦時」のみならず、性暴力とは、その「以前」の「平時」にも日常的に存在していたはずであろう。つまり、女性は「常に」いかなる暴力に露出されていたのか、そしてその性暴力の歴史=女性に対する暴力の起源をどこから探りえるかは、極めて重要な課題となってくる。

 そのなかで、問題の特性上さほど残存しないものの、『明治前期大審院刑事判決録』には何件かの強姦事件の展開が詳しく描かれている。本報告は、当該史料を用い、勝部眞氏の「内済の伏流化」論などを踏まえたうえで、明治期の村落社会及び司法制度の有り方に十分注意を払いつつ、歴史における性暴力問題を新しい方向から再検討するものである。慰安婦問題とは異なり、日本史のみの問題に限定されてしまうが、だからこそ性別問題一極に集中し、複雑な性暴力問題の論点を整理ことも期待できよう。



 

8、清末女子留学生と実践女学校での教育

広島大学 張 潔

 1896年に、清国は初めて13名の男子留学生を日本に派遣した。その後男子留学生とともに日本に来た妻、妹や娘たちも、女子留学生として女学校に入学した。女子留学生は中国人留学生全体の中で占める比重は100分の1程度にすぎなかった。東京女子高等師範学校をはじめとする国立の教育機関に加え、実践女学校、日本女子大学校、女子武術学校、東亜女学校、成女学校、共立女子職業学校、東京音楽院など民間の高等教育機関にも女子留学生が学んでいる。中国人女性留学生の受入れに最も積極的だったのが、下田歌子の実践女学校である。実践女学校は、1901~22年の間に100名近い中国人留学生を迎えている。1905年、湖南省からの官費留学生を対象に実践女学校における女子留学教育の実態の詳細を明らかにしたい。また、彼女たちは日本で中国人が出版した新聞と雑誌に自分たちの論説を載せた。その論説の内容を考察したい。